2019/5/27
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言葉のちから その9 |
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言葉のちから (夢を形に)
「自分に作れなかったのはダイヤモンドと真珠だ」これは、世界の発明王・エジソンの言葉です。 世界の真珠をリードするミキモトの創業者であると同時に、彼は偉大な発明家でもあったのです。 そもそも真珠は、貝類が体内に取り込んだ異物をカルシウムなどで包みこむことで生み出される宝石で、人工的に真珠を貝に作らせる技術は不可能だと考えられてきました。その常識を覆したのが御木本幸吉です。三重県鳥羽のうどん屋の長男として生まれた幸吉は、やがて天然真珠の魅力にとりつかれます。 「この美しい真珠を、なんとか人間の力で作り出すことができないだろうか……」 1890年、幸吉32歳、妻のうめが26歳の時のことでした。 アコヤ貝に適した生息環境とは? アコヤ貝はどんな餌を食べるのか? 真珠の核に適した物質は何か? 調べることは山ほどあります。また、海を利用するために、地元漁業者や漁業組合との交渉、役所との折衝など、技術以外の面でも大変な苦労がありました。それでも、幸吉は一つ一つ問題をクリアしながら、根気よく協力者と共に研究を続けていきました。ところが、1892年、幸吉の養殖場に赤潮が押し寄せてきて、養殖中のアコヤ貝がすべて死んでしまったのです。4年にわたってお金と労力をつぎこんできたのに、そのすべてが、一日で水泡に帰してしまったのです。 さらに、追い打ちをかける、心ない人々の「真珠狂い」という陰口と嘲笑。 これには幸吉も大いなるショックをうけます。 そして、絶望、挫折…… いや、挫折しなかったのです。 絶望して挫折するなんて誰にでもできること。絶望したときこそ、もう一歩踏み出す。 幸吉はここでふんばったのです。再出発の資金をつくるために、再び海産物の取引に励みながら研究を続けるのです。そしてついに1893年、真珠形成実験を行っていたアコヤ貝の中に、半円真珠が出来ているのを発見します。自信を得た幸吉は、さらに研究を重ね、1896年に真珠養殖法の特許を取得しました。こうして、うまくいきかけたかに見えた時…… またも絶望……。 幸吉の良き理解者であり、最愛の妻であるうめが32歳の若さで病死してしまいます。それからというもの、妻の位牌をなでては感謝の報告をするのが、幸吉の日常の習慣となりました。その後も、幸吉は、何度も何度も実験を繰り返しました。 そして妻の死から10年後。 1905年、幸吉はとうとう完全な真円真珠の養殖法を確立します。幸吉がアコヤ貝の養殖にとりかかってから、18年の年月が経っていました。 名実ともに真珠に関する発明の全てを成功させた幸吉は、1927年に渡米し、エジソンとの会見を果たします。その席上で、エジソンが幸吉の果たした功績を讃えたのが、次の言葉です。 「自分の研究所でできなかったものが二つある。一つはダイヤモンドで、もうひとつは真珠である。 あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成させたことは、世界の驚異だ」 |
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