2019/8/11
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言葉のちから その88 |
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言葉のちから 【アリの話】 2004 HRI「てら小屋」プロジェクトより 『子どもたちは自ら育つ』 日高 敏隆(動物行動学者・総合地球環境学研究所所長) 親や教師の役割とは? もう30年以上前の話になるが、成城学園小学校の先生に絵を見せてもらったことがある。小学生がアリを描いたもので、それぞれの子どもの絵が3段階になったものだった。 授業のはじめに先生が、いきなり「アリの絵を描きなさい」と言って子どもたちに描かせた。それが上段の絵だった。アリのイメージがなかなか湧かなかったのだろう、描いたり消したりして、ずいぶん苦労したらしい絵もあった。かと思うと自信満々、一筆でさっと描いている絵も少なくなかった。 いずれにしても子どもたちの描いた絵の多くは、頭と胴体、4本の肢という、ありがちな虫の絵だった。ひげ(触覚)は、頭から胴体に向かって、つまり後ろ向きに生えていた。女の子が描いたものは、そこにリボンを結んでる。 この絵を描かせた後、先生はシャーレにアリを入れて各生徒に配り、「これが本物のアリだ。これを見て描きなさい。」といって、再びアリを描かせた。それが中段の絵だった。 いまもそうであるが、当時も「本物を見せることが大切だ」といわれていた。頭の中に思い浮かべて描いた絵と、実物を横において実際に見ながら描いた絵では、質が違う。子どもたちの絵は劇的に変化して、本物に近づいているはずだ・・・・という僕の期待は、見事に裏切られた。大部分の子どもたちの絵は、依然として頭と胴体、肢は4本だったのである。 そこで先生が乗り出した。 「さあ、君たちの絵はちゃんと描けているかな。う~~ん。ちょっと違うかなあ。これから先生が説明するから、シャーレの中のアリをもう一度よく見なさい。ほら、アリの体はどんなふうになっている?君たちが描いたように、頭と胴体だけかな?」子どもたちはそこで気がついた。「あ、3つに分かれている」「そうだろ。アリの体は頭と胸と胴体と3つになっているんだよ」 先生は続けて子どもたちに尋ねた。 「じゃあ、足は何本ある?4本かい?」「あ、6本だ」「そうだろ。その6本はどこに生えている?」 答えはいろいろ返ってきた。「頭と胸と腹に2本ずつ!」「え、本当かい?」「あ、違う。おなかには肢は生えていないや」 「じゃあ、頭には?」 「そう。アリの肢は6本がみんな胸に生えているんだよ。おまけに肢は、君たちが描いたようにいきなり下向きに生えているんじゃない。いっぺん上向きになって、それから下へ向いているだろ」 子どもたちは納得した。 「さあ、それからヒゲだ。触角はどっちをむいている?後ろ向きかい?」 子どもたちはそこでまたあらためて気がついた。「あ、前向きになっている!」 「そうだろ。アリは触角で前を探りながら歩くのだから、触覚が後ろ向きになっていたら困るんだよ」 子どもたちはうなずいた。「さあ。もういっぺんアリをよく見ながら描いてみなさい」 こうしてできあがったのが下段の絵であった。子どもたちのアリの絵はぐっと実物に近くなった。頭と胸と腹。胸には6本の足。頭から前をむいた触覚。 この一連のアリの絵の話を聞いて、僕は目からうろこが落ちた気持ちであった。 人間は実物を見たからといって、おいそれとその実物が見えるものではないことが、しみじみよくわかったからである。 「実物を見なさい」といわれても、どこを見ていいのかよくわからない。そういうときに親や先生が「ね。こうだろ。どっち向いてる?」と言ってやる。これがきっかけをつくる。親や先生はただそのために必要なのである。きっかけがなければ、子どもが自分で気づくまでに時間がかかる。気づかずに終われば、学ぶことが少なくなってしまう。ただ、あくまでも子どもは自分で育っているのだから、そのときはまったく関心を持たなかったら、それはそれで仕方がない。その子どもはほかの事に関心を持つのだろう。そこでまた、きっかけを与えてくれる人が絶対に必要なのである。人間が集団でいることには、そういうきっかけの必然性がこめられているのではないか。 |
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