2019/8/9

ナガサキ 8月9日・・・

今日は、長崎に原子爆弾が投下された日。
 長崎が平和の願いに包まれる日です。
 1945年8月9日、長崎市に投下された原子爆弾が11時2分に炸裂しました。死者7万3884人、負傷者7万4909人、被災戸数1万8409戸という、破壊的な被害に見舞われました。長崎の人々は、この被爆の悲惨さを忘れず、後世に語り伝え、世界恒久平和を念願しています。
 
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 その日、私は旧三菱兵器工場で働いていました。15歳の夏でした。
 早めの昼ごはんを食べるため、日差しを避けて建物の日陰で弁当箱を開こうとした瞬間。とてつもない眩しい光を感じ時が止まってしまいました。
 気づいたとき、瓦礫の下から這い出し、周りを見渡すと、周りは暗く、火事と叫び声、熱風が吹いていました。そこは、爆心地から約1km。工場は跡形もありません。
 私は朦朧とした意識のなか、とにかく宿舎に向けて歩くことを決めました。工場から1.5km。何百という死人やけが人とすれ違ったでしょう。とにかく、歩きました。焼け焦げた人間が重なり合うように死んでいました。浦上川に向かってやけどをして意識朦朧として歩く人達。「水、水・・・」と這って歩く人達。男か女か、大人か子どもか、それさえもわかりません。世界が一変してしまったのです。別の世界にきたようで、恐怖も怯えも感じなかったといいます。 
 
 「起きれ! 起きれ!」 体を揺すられ、目を覚ますと水たまりに顔を突っ込んで意識をなくしていました。その大人の人が体を起こしてくれ、私が水溜りの水を飲もうとすると「飲むと死ぬぞ」と、水筒の水を一口だけ飲ませてくれました。「早よ、長崎から離れんば」と一言。 互いに別れました。
 
 宿舎に着くと宿舎も跡形もなくなっていました。
 
 そこで、どれくらい眠ってしまったでしょう。目を覚ましたとき、全身に痛みを感じました。両太ももがやけどで真っ赤にただれていました。左肩から右手首まで無数のガラス片が刺さっています。背中にも焼けるような、刺すような痛みがします。きっと火傷をしているのでしょう。体を起こして しばらくボーッと この先どうすればよいのかを考えていました。 時折、叫び声が聞こえます。「お母さ〜ん お母さ〜ん」「助けて 助けて」やがて声は聞こえなくなりました。
 
 そして、ぼんやりと顔を上げると 東の空に仏様が浮かんで見えました。 何も考えずにそちらの方へ歩きはじめました。街の風景はこれまで見てきたものとは全く違います。少し歩いては膝づき、眠っては歩きました。とにかく仏様が見える方向へ歩きました。
 
 どれだけ歩いたでしょう。 たどり着いたのが「道ノ尾駅」。そこには、兵隊さん、救助の人たち、色んな人が救援活動をしてていました。それからは、気を失って丸一日眠っていたようです。
 
 次の日 道の駅から救援列車に乗り、親戚のいる福岡県の町までたどり着きました。
 私の姿を見たおばさんは、真っ黒な顔をし、全身火傷、ガラスが刺さった体の私をみて、化け物でも見たような、なんともいえない叫び声を上げました。追い払おうとするので、何度も何度も自分の名前を叫びました。「長崎で爆弾にやられたっさ。」
 
 
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 毎年8月9日のお昼前になると、父は仕事の手を止めて、一番小さな私を膝に抱え、2人の兄は父の前で正座をしてこの話を絵本を読み聞かせをするように、身振り手振りで話をしてくれました。
 父の目には、その時の風景が見えているようでした。毎年、毎年 話を聞かせてくれました。
 
原爆投下から74年。歴史も記憶もやがて風化してしまうのでしょう。
 今日は長崎にとって特別な日です。
 もう少しすると お盆。
 お別れをした人たちを偲ぶ日がきます。
 
長崎の平和公園の中にある平和の泉(噴水のある池)の碑文
 
のどが渇いてたまりませんでした

水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

―あの日のある少女の手記から―

 

 昭和20年8月9日原爆のため体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら死んでいきました。 その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設しました。 今日ここを訪れてくださいましたあなたに、めい福を祈り、平和を祈念していただければ誠に幸いと存じます。

長崎市長