2019/7/27

太宰治と甲府

山梨県内には、温泉が数多くあります。「ほったらかし温泉」など日本一の温泉も有名ですが、まちなかに小さな温泉(銭湯)が生活の中に息づいています。
 
 最盛期には100軒以上の銭湯があったといいます。そのなかでも「喜久の湯」は特色のある銭湯です。山梨大学から徒歩15分の銭湯です。登山の帰りに立ち寄る人も多く見かけます。
 喜久の湯は、太宰治が通ったという昭和の風情がある銭湯で、その創業は昭和元年。
 
太宰と甲府

太宰治が甲府を訪れたのは、昭和13年9月であるからもう80年以上も前のことです。そのころの太宰治は、最初の夫人である小山初代と離別し、文学仲間と遊興するなど無頼な生活を送っていました。そうした状況を心配した周囲の人達が正常な生活に戻すため太宰に妻帯することをすすめ、結婚相手を探していました。そんな矢先、太宰治が師事していた井伏鱒二を通じて甲府市水門町29番地の石原美知子との結婚話が持ち込まれました。太宰治29歳の時です。

太宰治はそれまでの生活を一新し、思いを新たにする覚悟で下宿を引き払い、井伏鱒二が滞在していた御坂峠天下茶屋を訪ねました。天下茶屋に滞在して間もなく、石原美知子宅で見合いが行われ、井伏鱒二と紹介者の斉藤せい、美知子の母くらが立ち会いました。太宰と美知子には異存はなく婚約が整い、太宰は結婚の準備のため天

下茶屋を下り、石原家近くの下宿屋寿館に宿を定め、結婚式を挙げるまで石原家と親交に努めました。

昭和14年1月、杉並の井伏鱒二宅でほんの身内だけが集まった結婚式が行われました。その後、太宰は新居を甲府市御崎町56番地に構え、天下茶屋滞在のことを

書いた「富嶽百景」や「I can speak」「新樹の言葉」など甲府を舞台にした作品を次々に発表していきました。甲府での生活は、8月までと短期間ではありましたが、夫人の実家があったことから、その後も湯村温泉などを度々訪れています。特に、昭和20年4月から7月までは夫人の実家に疎開しましたが、7月の甲府空襲に遭い焼け出されています。この時のことを作品「薄明」では詳しく述べています。

昭和23年6月、玉川上水に入水して39年の生涯を終えましたが、太宰治死後、「斜陽」などの作品はベストセラーとなり、今でも多くの人に読まれています。