2019/6/9

言葉のちから その22

言葉のちから 【やさしさは引き継がれる】

 

1841年
14歳になった中濱万次郎(ナカハマ・マンジロウ)は漁師として初めて船に乗るのが許された。
土佐の宇佐浦(高知県)から出漁。その3日目、運命の大事件は起きる。
天気は急変し爆風雨に。
万次郎、ほか4名が乗った船は沖へ沖へと流された。
強風は翌日もその翌日も続き3日分の食料と飲料水が尽きた。空腹と寒さの限界に耐えること7日目。
小さな島影を目にする。
万次郎たち5名はその島に上陸。砂浜に横たわり心から安堵した。
しかし、その島は八丈島よりさらに300キロも南に位置する絶海の孤島だった……。
脱出は不可能……。
漁師にもかかわらず釣具など全てを失っていたため魚を捕ることもできず、みるみる五人はやせ衰えていった。
さらに、そんなときに大きな地震に見舞われ、棲家としていた洞窟の一部が崩れ落ちた。
そして、なんと、自分たち以前にその島に漂着した者たちの墓を発見することになる。
やはり、俺たちもここで死ぬのか……。
雨が降らず湧き水も枯れた……。 もうムリ……。 いよいよここで死ぬ……。
しかし、いつだって光はどん底で現れる。
洋上遥かに船影が見えた。3本マストの大きな帆船。
天保12年5月9日(1841年6月27日)、漂流から150日目、無人島での生活143日目、
5人は米国籍の捕鯨船、「THE JOHN HOWLAND」に救助された。
船内に収容された万次郎たち五人に気のよさそうな船員がさっそく大きな器に山盛りのイモをもってきてくれた。
そこに表れた船長は気のいい船員を厳しく叱りつけた。
すると船員は慌てて器ごとイモをすべて持って帰ってしまった。
英語のわからない五人は呆然とした。
代りにでてきたのはほんのわずかのパンと豚肉と野菜スープ。これでは空腹を満たすには程遠い。
「船長はケチだ!」万次郎は船長を恨んだ。
しかし船長の真意が後にわかる。
飢えた状態にある者が大量の食物を摂ると危険で、時には死につながることもあると船長は知っていたのである。
その船長の名はウィリアム・H・ホィットフィールド。当時37歳。

万次郎たちは日本に帰ることが許されなかった。
当時、日本は鎖国をしており、外国船はいかなる理由があっても日本に近づけなかったのである。
4年前にも、漂流していた7人の日本人を届けようと浦賀に入港した米国船は事実、砲撃を受けた。
万次郎たちは英語がわからないため日本に戻れない説明をいくらされてもわからない。
でも、この船長は信じていいと次第に感じはじめる。

万次郎はヒゲ面の巨体の厳しくもすこぶる優しい目をしたこの船長が何を言ってるか心から知りたいと思った。
手のあいた船員を片っ端からつかまえては身振り手振りで英語を教えてくれと頼んだ。
万次郎は船のなかで自分にできる仕事は何でも進んで買ってでた。
時にはメインマストにのぼり、「シー・ブローズ!!」と鯨の発見を知らせた。
船員たちの洗濯を手伝い、給仕を手伝い、船長の身の回りの世話をした。
当時の日本では下の者に無礼があったら、切り殺しても罪には問われないキリステゴメン」の時代。
しかし、アメリカは違った。
手伝えば、誰からも「サンキュー・マンジロー」と感謝された。
マンジローは感激した。
ついには他の船員たちと同じ帽子ももらえた。万次郎はその夜、うれしくて寝付けなかったという。
万次郎は船から名をもらい「ジョン・マン」の愛称で呼ばれるようになった。

万次郎たちが救助されてから半年、船はハワイのホノルルへ寄港。
五人の日本人は一人の宣教師に託され、この地で暮らし帰国の機会を探すことになる。
しかし、万次郎は船長とともにアメリカ本土へ行きたいと思っていた。
いきなり拾った自分たちをなんの偏見ももたず優しく迎えてくれた船長に深い尊敬の念を感じ、
未知の国、アメリカ本土にわたってみたいという抑えがたい興味と憧れが万次郎にはあった。
船長も同じ思いだった。
この男にアメリカを見せてあげたい。
「ジョン・マンをアメリカ本国へ連れていきたい。教育を受けさせてやりたいのだ」と申し出があった。


アメリカ本国へ渡った万次郎は船長の家のすぐ近くのオックスフォードスクールに入学することになる。ある日、万次郎は何気なく町の公会堂をのぞいた。
ここで衝撃を受ける。
アメリカでは、住民たちが集まって、自由に意見を述べ多数決で町の行政を決めていたからだ。
国とは自分たちが動かしていくものなのだ。
このときの思いが万次郎の原点になる。
当時の日本は、『自由』という言葉すらない時代。庶民の意見が反映されることなどありえない。
しかし、誰もが手放しで日本人・万次郎を受け入れてくれたわけではなかった。
船長は万次郎を連れて教会に礼拝に行った。
船長が万次郎を自分の家族席に着かせようとしたとき、関係者に
「白人以外の者はそこに座ってはいけない」と言われた。
すると、船長は長年通い続けてきたその教会との縁を切った。
そして万次郎を受け入れてくれる教会を求めていくつもたずね回った。
申し訳なく思った万次郎に対して船長はこう言った。
「私は約束したはずだジョン・マン。お前を育てると」


どこまでも信念をつらぬく船長に万次郎は圧倒された。


万次郎の母は当然、万次郎は死んだと思っていた。
近くの大覚寺の境内に30cm弱の丸い自然石を置き、万次郎の空墓にして1日も欠かさずお墓参りを続けてきた。
そして、行方不明から11年10ヶ月後 万次郎は故郷、日本に戻れることになったのである。
万次郎は生きていたのだ。
再会の日、母は「ほんとうに、万次郎ですか、わたしのせがれの万次郎ですか……」と幾度も問うた。
このとき、土佐藩で万次郎の事情聴取の記録係を担当したのが
河田小龍という絵師である。
河田は万次郎を自宅の家に寄宿させ10年以上のアメリカ体験談、海外事情を筆記し画にした。
万次郎はアメリカの先端技術を伝えるのに相当苦心したようだ。
例えば「レイロー」。鉄道のことだが当時、日本には汽車を見たことのある者は誰もいない。
ジョン万次郎は何日も何日もアメリカという国の技術、文化、、そして、自由という概念を河田小龍に語った。
後に、その河田小龍の元に出入りするようになる若い男がいる。
その男は河田小龍から伝え聞いた海外事情に驚愕し、新しい世界観をつかむ。
その男は……。



日本を変えた英雄・坂本龍馬です。
ジョン万次郎の漂流。
アメリカで過ごした青春時代。
そして船長のやさしさ。
それは河田小龍から坂本龍馬に受け継がれたのである。

明治維新。
革命の突破口となった新しい世界観をもたらしたのは絶対絶命の危機を乗り超え、アメリカで自由と、やさしさを学んだジョン万次郎の存在だった。

「サンキュー・マンジロー」
そして、サンキュー船長!


やさしさは必ず受け継がれる。