2019/6/1

言葉のちから その14

 言葉のちから  【ア・ハード・デイズ・ナイト】

 

1957年7月6日。
その日、ジョン・レノン(当時16歳)は教会のバザーの催しで、仲間と組んだバンドで演奏をしていました。演奏を終えると、あるひとりの少年がギター片手に近づいてきて、いきなりロックンロールナンバーを弾き始めました。
それはすごいテクニックで、そしてその歌声もイカしていた。
ジョンをはじめ、メンバーたちはあっけにとられます。その少年こそ、たまたま遊びにきていたポール・マッカトニ─でした。
ポールはこのとき15歳。
後に、ビートルズを結成し、Lennon=McCartneyというクレジットで伝説の名曲を次々と生み出していくことになるふたりの運命は、この日交差したのです。

その1年後、ジョン・レノンは、絶望の洗礼を受けることになります。 母親の突然の死……。
ジョンの母親は、酔っぱらいの運転する車にはねられ亡くなってしまうのです。母はいつも、落ちこぼれでアウトローのジョンの味方でした。先生にこっぴどく叱られたときも、母は笑い飛ばしてくれた。
その母と一生会えなくなったのです……。
ジョンは泣いた。
それからのジョンの毎日は、荒れ狂う日々となりました。そんなジョンに救いとなったのは、ロックンロールでした。ジョンはその悲しみのすべてをギターの練習にぶつけたのです。

実は、その2年前、ポール・マッカトニ─も母親を病気で亡くしています。
ジョンとポールが初めて出会ったあの教会のバザー。ポールは15歳ながら、なぜジョンを驚かせるほどにギターがうまかったのか。
ポールの母が死んだ夏。ポールは父に頼み、実はギターを手にしていたのです。
そして、母の死をのり超えるために気がふれたようにギターにのめりこんだ。
だからわずか1年で劇的にうまくなったのです。

ポールはジョンとのことをこう語っています。
「何年か経っても、幾度かふたりであの時の悲しみに襲われ、一緒に泣いたことがあった」
「僕らふたりは同じような心の痛手を受け、それを克服しなければならなかった。
 言葉にするには辛すぎ、悲しみを笑いとばすことで、どうにか乗り越えたんだ」
ジョンとポール。
我が強く、本来、交わることはないであろうふたりは、ともに母の死を乗り越えていく過程のなかで音楽性を深め、そして絆を結んでいったのです。
ちなみに、ポールが後に、亡き母を歌ったのが「レット・イット・ビ─」であり、
ジョンの方は「マザー」です。
そしてジョン・レノン19歳。
ビートルズは、ようやく、ドイツのハンブルグのクラブでの演奏の仕事を手にいれます。
しかし、当時のハンブルグは、銃声が鳴り響き、ギャングが大手をふって歩く犯罪都市でした。
しかも、ハンブルクでの仕事は、食事は昼に一度、ミルクをかけたコーンフレーク1杯だけ。
クラブでは一晩で10~12時間と出ずっぱりのステージ。
控室はトイレ。
宿泊先は隣の映画館の裏の物置。そして、客は、音楽なんか聞く気もない荒くれ者たちで、元受刑者すらいます。そんな生活を5カ月続けたある日、メンバーのジョージが18歳以下であることがバレて逮捕され国外追放に。
さらに、寝泊まりしていた映画館でポールがマッチをつけたところ壁が黒コゲに。ボヤ騒ぎとなり、放火の容疑でこれまた国外追放に。
こうしてメンバーは、生まれ育ったイギリス、リヴァプールに戻らざるをえなくなります。
意気揚々と向かったドイツでしたが、有名になることもなく、帰りは散々。
みんな失意のドン底で、自信を失いました。
後に天才の名を欲しいままにするポールですが、このときは虚無感に襲われ、家でゴロゴロしていたところを父親に叱られ、しぶしぶ就職します。
最初は、トラックの荷物の積み下ろしの仕事につきますが2週間でお払い箱に。
次に見つけた電気のコイルをまく仕事では、他の工員が1日10個以上仕上げるのに、
ポールは1個半という超不器用ぶりでした。
「ビートルズは、もう終わりだ……」ジョンも、当時の彼女にそう告げるほどの意気消沈ぶりでした。
しかし、このとき、あきらめなかった男がいたのです。メンバーのジョージ・ハリスンです。
ジョージは、ポールとジョンのもとを訪れ、「もう一度ビートルズをやろう」と励まし続けたのです。
そしてチャンスはやってきます。
1960年12月27日。ビートルズのターニングポイントと言われる日です。
リヴァプールの北、リザ─ランドのタウンホールに立ったビートルズ。ポールが「Long Tall Sally」を歌うや、ワ─っという大歓声が起き、客は総立ち。観客が金切り声でステージに押しよせてきました。
一体、どうしたというんだ!?
ドン底だったハンブルグでの5ヵ月にわたるハードな演奏生活の中で、彼らの音楽は劇的に進化を遂げていたのです。
ジョンはこう振り返っています。
「ビートルズがまさにビートルズとして育ったのはリヴァプールじゃない ハンブルグだ。 ハンブルグで、ぼくらは本当のロック・バンドに成長したんだ。 12時間もぶっつづけで言葉の通じない、
 しかも音楽などまるでお目あてでない種類の人間をノセるだけのものを、ぼくらは身につけていた。
 ひどい夜(「ア・ハード・デイズ・ナイト」)だった。
 あのひどい犬なみ、いや、それ以下の日々のなかで、
 いちばんたいせつな何かを自分たちのものにしていた……」
母の死という悲しみを乗り越えようとして、ジョンとポールは音楽に打ち込んだ。
母の死という絶望を分かち合うことで、ジョンとポールの絆が結ばれた。
そしてドン底だったハンブルクでの5ヵ月がビートルズを育てたのです。
人は“ア・ハード・デイズ・ナイト”(悲しみ)の中で本気になり
人は“ア・ハード・デイズ・ナイト”(絶望)の中で絆を結び
人は、“ア・ハード・デイズ・ナイト”(逆境)の中で進化するのです。